−静岡県島田市−


牧ノ原公園より撮影

島田市は「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」で知られる東海道の難所、大井川水域の中流に位置し江戸時代より栄えてきました。遠く富士山を望み茶の香漂う自然と歴史の町です。近年、市町村合併により旧榛原郡金谷町も島田市となり、平成20年には大井川上・中流域の川根町も島田市となります。

明治以降、大井川上流より筏で流された木材の集積地として各種木材産業が発展しました。現在人口は約10万人で教育、文化の盛んな町です。平成21年開港予定の静岡富士山空港も近く第2東名高速道路の建設も進んでおり東西の大動脈として、ますます発展しております。

 

島田の歴史

島田宿の発生は平安時代後期と推定されています。この時代、荘園が各地に成立、荘園の現地と都の領主(王家・摂関家・大寺社)との間で、人や物の行き来が盛んになりました。また、武士が地方に下り在地領主となりましたが、彼らは院や貴族と主従関係を結んでいたので、所領と都との間を度々往復しました。こうしたことから、主要路線には自然発生的に営業旅宿が出現し、それが交通集落「宿」へと発展していきました。

文治元年(118511月、源頼朝は東海道の宿々に天馬(乗り継ぎ用の馬)を常備するように命じています。これは東海道が武家政権の成立により、鎌倉と都とを結ぶ大動脈となったからです。天馬が置かれたことで、「宿」は「宿駅」へと変りました。

建久元年(119010月、頼朝は精兵一千騎を引き連れて都に上りました。鎌倉幕府が編纂した鎌倉時代史『吾妻鏡』によると、建久元年1223日、都から鎌倉に戻る頼朝が、この日「島田」に宿泊したことがわかります。

鎌倉時代の中頃に編集された『遺塵和歌集』に「弘安(127888)」の頃、東へかりて侍るに道の程の宿々を詠みつづける長唄」というのがあり、その中に「…きく河(菊河)のゆかしきに 同じ流れやくみてまし 島田・まえじま(前島)見渡せば わかるるせせ(瀬々)の大井がわ ふじ枝(藤枝)・おかべ(岡部)…」と詠まれています。これは布引原(今の牧ノ原)からの眺望であると思われます。

室町時代に書かれた「京都より鎌倉に至る宿次第」(『経覚私要抄』所収)に、島田は鎌倉から五十町、前島へ五十町とあります。鎌塚というのは島田市湯日の鎌塚付近に所在していた宿ですが、室町時代の終わり頃に衰退して、かわって金谷宿が出現します。連歌師宗祇作といわれる『名所方角抄』に「かなや(金谷)と云ふ宿在、〔大井〕河の間一里あり、河の西は遠江なり、東向は駿河、島田と云ふ宿あり、島田より藤えだの宿まで五里也」とあります。

戦国時代、駿河・遠江は戦国大名今川氏(氏親−氏輝−義元−氏真)の領国で、今川氏は東海道に伝馬を置き旅行者の利便をはかりました。この時代、島田は刀鍛冶の在所として知られていて、弘治2年(1556)9月、駿河府中に下向した前権大納言山科言継は、その時に日記に「島田、鍛冶の多き在所なり」と書き付けています。また『信長公記』の、織田信長が武田氏を滅ぼして東海道を帰るときの記事には「島田の町、是また音に聞こゆる鍛冶の在所なり」とあります。

天下統一が成り、駿河国主になった府中城主中村式部少輔一氏は、東海道の宿々に伝馬を置き伝馬掟を定めました。次いで徳川家康も「関ヶ原の戦い」に勝利し天下を手中に収めると、いち早く伝馬制度の整備に着手しました。慶長6年(1601)正月、まず東海道の宿々の中から四十余り(後に五十三宿となる)の宿を選んで「伝馬宿」に指定し、宿ごとに三十六疋(匹)の伝馬を常備するように命じています。このとき島田宿も伝馬宿に指定され、上りは金谷宿まで、下りは藤枝宿まで担当することになりました。

慶長10年(1605、一説に九年秋)夏、大雨のため大井川が氾濫して、島田宿は流失してしまいます(慶長の大洪水)。そのため人馬の継立は、流れ残った元島田の地において行われ、元和元年(161510年ぶりに旧地に戻りました。その時領主であった徳川頼宣(府中城主)は、島田宿を囲うように土手を築き、土手を境に内側を屋敷分とするようにと仰せられ、地子(宅地税)を免除したと伝えられています。そしてその後、島田の領主となった田中城主水野監物忠善も、先例を尊重し境土手に松の木を植えたと言われています。(土手の内側であった地域は古地図に「町並」と記されている)。

ところで島田宿ですが、江戸中期までの島田宿は、島田町という村(戦国時代は島田郷と呼ばれた)の一部でしたが、享保10年(1725)の助郷再編成の時から、宿駅のある町は「○○宿」と表記されるようになったので、それ以降は宿場の名前であるとともに村の名前にもなりました。

島田宿は街道家並を中心とする「宿方」と、それを取り囲むように位置する、元島田・川原口・稲荷島・向島・下島からなり、天保14年(1843)の『東海道宿村大概帳』では、家数は1461軒(内、旅籠は47軒)、人口は6727人となっています。

また、島田宿を横断する東海道の長さは、三十四町五十三間(約3.5km)となっていますが、実は三十二町四十軒で、その内訳は東境栃山橋から宿場東出口までが十町二十軒(約1.1km)、宿場町並が九町四十軒(約1km)、西出口から大井川の川端(川越場)までが十二町四十軒(約1.4km)、道幅は三間半(約6m)とされている。

なお、多くの宿場では、宿場の出入り口に方形の空き地「枡形(本来は見張りを置くところ)」が設けられていて、枡形から枡形までの間が宿場の家並みです。島田宿では東出入口の枡形は北側、西出入口の枡形は南側にあり、宿場家並み(南北合わせて350軒余り)とその裏町は上方から、一丁目・二丁目・…………・七丁目(各丁目の長さは一定ではない)と分けられていました。宿の中枢である「問屋場」は五丁目の南側に位置し、「本陣」が3丁目から四丁目の北側に並び(三軒)、「旅籠屋」は3丁目から五丁目に集中していました。

 

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